2022年08月05日
みどり財産 三谷です。自己紹介~学生編~
皆様こんにちは。
みどり財産コンサルタンツの三谷です。嫌なコラム当番が回ってきてしまいました。
特にネタが思いつかないので、今日は自己紹介をさせていただきます。
【誕生・家族構成】
1984年高知県で生まれました。父は警察官。母は銀行のパートで、それぞれ還暦を迎えたばかりで、まだまだ元気です。
私の妻は香川県出身の姉さん女房、理系女で公務員です。子供は小学校1年生の娘が1人だけです。
今、私にとっての一番のボスは娘という感じで、一人娘が可愛くて仕方ありません(親バカ)。
そんな、何のオチも無い普通の家族構成です。
【小中高時代】
小学校3年生から野球をはじめました。小中学校くらいの時は、私のように体が小さくても、器用さだけでチームの中心的存在にもなれ、それなりに活躍してきました。
少年野球のチームメートの中に、慶応サラブレットがおり、彼の影響を受け、小学校6年生からは塾にも通いはじめ、何と高知県内No.1進学校の土佐中学校に入学することができました。両親・祖父母と、誰も大学に行っていない三谷家にとっては、革命的な出来事だったようで、合格発表を喜んでくれた両親の反応は今でも忘れられません。
土佐中・土佐高でも野球漬けの毎日でした。一学年250人くらいだったと思いますが、野球部は、ほぼワースト10を独占するという感じでした。医者の子、経営者の子など、すごい奴らと勉強していたのだなと、今になって思います。
野球はと言うと、当然、「目指せ甲子園」で頑張りました。私は9番セカンドで、守備◎打撃×の選手でした。1学年下に、横浜から全国中学校シニア大会を制したセカンドが入ってきて、レギュラーを掴めなかった時期もありました。「なんでお前ほどのヤツが高知の土佐高校に来るんや!横浜高校行けよ!」と、本当に憎たらしかったです・・笑。
小さい頃は活躍していたので、応援に来てくれる親も楽しかったでしょうが、試合に出られない自分を見せるのがとても悔しかったのをよく覚えています。試合に出られず、真っ白なユニホームで家に帰るのが辛くて、情けなくて仕方なかったのは忘れられません。辞めようかとも何度も思いました。
学校が終わって、部活をして、20時くらいに帰宅し、飯を食って、1時間くらい素振りをして、22時から24時まで勉強。5時には起きて朝練へ。こんな生活をしていました。私がハードワークできるのは、この時の頑張りのおかげなのかなと、今、この文章を書きながら気が付きました。支えてくれた母に感謝しかありません。
最後の夏は、レギュラーを掴むことができ、県大会は準優勝までいきましたが、残念ながら夏の予選は2回戦敗退で、ここで野球はおしまいです。
大学受験まで残り半年。ここからは勉強オンリーです。野球部の中で一番成績が良ければ、慶応に推薦で行くことができ、私はその権利を持っていましたが、大学で野球を続けるつもりは無かったので辞退しました(今思うと間違った判断だったのか・・・)。勉強をし、それなりに成果が出てくると、これまた楽しいものでした。第一志望は、神戸大学。神戸大学がどんな大学なのかはあまり関係なく、自分の成績で手が届きそうな最も高いところが神戸大学だったというだけです。残念ながら、前期後期ともに不合格でした。浪人はイヤだったので、滑り止めで受かった関西大学に進学することを決めました。
【大学時代】親元を離れ、大阪で一人暮らしが始まりました。今まで真面目にやり過ぎた分、反動が出たのか、遊びとバイトに明け暮れて、ダメ男になってしまいました。人生の夏休みを存分に楽しんだという感じです。特に学んだこともなく、特にやりたい仕事像も見えてこず、バイト先の居酒屋が楽しかったので、そこの社員になろうかと親に相談したら怒られたことも覚えています。
その後、就職活動→オリックスに入社。2年大阪勤務。3年半高松支店勤務→27歳で結婚&転職、みどり財産コンサルタンツに入ることができました。以降、10年が経ち、今に至っています。
色々と書きたいことがありますが、長くなりますし、次回コラム当番もネタが無いはずなので、就職活動以降は次回書きたいと思います。
もしここまで読んでいただけた方がいらっしゃれば、お付き合いいただき、ありがとうございました。
こんな私ですが、今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。