2022年09月14日
【自己紹介】みどり財産 竹本です。 〜前編〜
弊社の三谷氏のコラムの自己紹介がとても良かったので、私も真似させていただきます。
学生時代
小豆島で生まれ、戦後の食料不足のせいか、姉は1歳で病死しました。両親が衣料品の卸問屋を開業するので、私と両親と弟の4人は1951年に小豆島から高松市に移住しました。ペンシルベニア幼稚園(米国ではなく、香川県高松市鍛冶屋町にあった)に通学しましたが、病弱でかろうじて卒業したとのことです。
学業成績はそこそこでしたが、名門の香川大学付属小学校と、付属中学高の双方とも不合格でした。そこで高松市立花園小学校と高松市立光洋中学校に入学。
次は名門の高松高校に合格しましたが、最初のテストで英語が零点でした。ショックでした。この後高校生時は英語の勉強ばかりをしたので、学業成績は急上昇しました。高校3年生の時に結核と誤診され3か月間入院しました。京都大学を受験しましたが、不合格でした。高松高校の予備校で浪人生活をし、東大を受けましたが不合格。親の事業を継ごうと思っていたので、経営者養成に強い慶応大学経済学部に入学し、未来学と金融を学びました。
趣味は、アイデア商品等が好きでしたので、アルバイトをしていろいろな新商品のパンフレットを集めることでした。
銀行時代
東京大地震説が流布していたので、東京から離れ、地元四国に本社がある銀行に入行しました。そろばんを持参せず、新しい電卓を持参し、多くの銀行員から笑われました。
銀行では宅地建物取引主任者試験に合格すると5万円の賞金がいただけるということを知り、入行した年に合格しました。現在は合格が難しいのですが、当時はやさしかったのです。
新しいことが好きな病気が止まりません。消費者金融研究のため、サラリーマン金融のカードや当時現存していた殆どすべてのクレジットカードを作り、一部の上司から非難されました。当時はカードを使うことは、悪だと考える人が多かったのです。
成長力のある国際業務が重要と思い、国際業務への転向を希望し、大阪支店の外国為替課に異動になりました。次に英語が弱かったので、日米英会話学院に6か月通わせていただきました。しかし、英会話検定1級には合格できず、銀行に迷惑をおかけしました。ニューヨーク支店勤務もできませんでした。日本語も下手だし、英語もしゃべれない。とにかく、暗記が苦手です。あまり英語を使わない、東京の外国資金課に移動になり、ディーラーをしていましたが、ギャンブル的な仕事は好きでないので、広島支店に転勤になりました。広島支店では国内外にわたる銀行業務を全般的にすることができ、とてもおもしろかったです。
新しいもの好きで、先物予約付き個人向け外貨預金を日本で初めて開発しました。7か国通貨建ての旅行小切手を日本の銀行支店で初めて店頭販売しました。小切手の現物在庫管理が毎日の義務になり、同僚の行員にも迷惑をかけたと反省しています。
広島支店では大失敗もしました。失敗の原因は不明だが、融資本部での承認日の前日での融資実行が、日銀検査で発見され、私は減給処分を受け、暇な部署への移転を命ぜられました。融資は優良債権で不良債権にはなりませんでしたが、上司の責任者にまで出世を遅らせ、迷惑をおかけしました。
暇な部署とは、税務相談と資産運用相談等をする相談所でした。所長の方針により、18時には、帰社しなければならない部署でした。21時より前に帰宅したことはなかったので、夜の税理士養成学校に通うことができ、初年度は簿記、2年目は財表に合格出来ました。しかし、その後は深夜まで残業することが多い部署に移ったので、税理士合格には10年かかりました。しかしながら、暇な部署では、新しい金融商品の研究もでき、社内月刊誌に競合金融商品シリーズとして寄稿しました。これが認められ、新商品企画課に転部できました。現在の総合口座に、保険・証券・当座貸越を更に追加した完全総合口座を企画し、顧客の有利性・利便性を高めようとしたが、実現できませんでした。
しかし、航空機を中心とするレバレッジドリースという利益を繰り延べて経営を安定化させる商品の案内が野村証券・住友銀行等大手金融機関からありました。この商品に関して、野村証券は野村バブコック、住友銀行は住銀リースという自社の子会社の商品のみを扱っています。特定商品の販売代理でした。お客様の、導入希望時期、決算期、初年度の節税割合・繰延期間等お客様のニーズに合う利益繰延商品をお客様のために探して販売するという購買代理ではありませんでした。そこで、私は、当時レバレッジドリースを扱うリース会社が約20社ありましたが、これらをすべて私の勤務する銀行で紹介できるようにしました。これで、私の勤めていた銀行での紹介額、件数ともに地銀約100行中20年間連続断トツトップでした。自己資金でなく、融資付きで実行したので、利ザヤもあり、収益にも大きく貢献しました。
バブル崩壊で、カナダの2大航空会社や日本航空の破綻、長銀系長銀リース・日債銀系クラウンリース等の破綻で私は、左遷されそうになったが、お客様の被害が軽微で解決したので、定年迄、銀行でレバレッジドリースの紹介を続けることができました。
バブル崩壊で、投資家の経営状態が急激に悪化して倒産しそうになった投資家がかなり出現しました。リース会社が中途解約に応じてくれず、そのうちかなりの数の投資家が、資金繰りに困り倒産したようです。
ところが、私は、リース会社との交渉により、中途解約ではなく中途譲渡を承認していただき、優良企業に転売し、倒産を防ぎました。倒産を防いだ数は約50社にもなりました。私は中古レバという言葉を造語しました。造語するのが趣味です。
1980年代には保険会社は大きな収益を上げていました。したがって、市場金利が大幅に低下しましたが、保険による調達利回りを下げることをしなかった保険会社もありました。そこで保険契約者が借入をして保険を購入しても、保障が得られるうえ、利ザヤも稼げる時期があり、保険契約を多額に行い、日産生命、東邦生命、第百生命等を破綻に陥らせました。しかし、私及び私の勤務していた銀行が大量に勧誘した保険は、殆どを保険会社の倒産前に解約していただいたので、多くの保険契約者に心配はおかけしましたが、損失はありませんでした。しかし約1万人の保険契約者のうち、1人だけは連絡がつかず、損をさせたのではないかと、反省しています。