2023年07月24日
『アンネの日記』 文学作品としても豊かな魅力
自分にとっての戦争体験とは?
間もなく終戦記念日を迎えます。終戦から78年が過ぎます。
戦後生まれの自分には、両親の幼少期の体験談(学童疎開や食料の買い出し、東京大空襲の真っ赤な夜空・・・)が唯一、戦争に関する直接の情報です。
もう少し戦争というものを知り、何らかの実感をもったのは、ベトナム戦争を描いた映画『地獄の黙示録』(1979年作品)、イラクのクェート侵攻(1990年)が端緒になった湾岸戦争、今も記憶に新しい米国同時多発テロ事件(2001年9月11日)だったように思います。
大分大人になってからですが、ポツダム宣言受諾に至る経緯を記した終戦秘話『日本でいちばん長い日』(半藤一利著)などは、かなりの緊張感と衝撃をもって読みました。この時期、昭和天皇の肉声による玉音放送は、テレビなどでしばしば耳にします。
『アンネの日記』をふたたび読み返す
現在も続いているウクライナ危機は、SNS時代ということもあり、極めて、戦況や被害の状況がリアルに伝わってきます。
国外に避難するウクライナの人々の光景、また、ロシアの選別収容所への強制連行のニュースに触れ、一冊の本を思い起こしました。
『アンネの日記』については、知らない方はいらっしゃらないのではないでしょうか?
ユダヤ系ドイツ人の少女アンネ・フランクが書き残した日記です。日本は、米国に次ぐ世界第2位の発行部数があるそうです。マンガやアニメ映画などの影響が大きいのかもしれません。私自身、初めて読んだのは十数年前でした。
アンネは、ナチスのユダヤ人迫害を逃れて、オランダに避難、その後、隠れ家に暮らしを続けます。日記は、1942年6月12日、隠れ家の生活から始まり、1944年8月1日まで続きます。
不自由な潜伏生活の中にもかかわらず、聡明で、大人びた、つねに人生を肯定しながら、将来をあれこれ夢見ていた13歳のアンネにとって、キティーという架空の友人に宛てた日記の存在は、希望をもって生きる上で重要な役割を果たすことになります。
アンネは、アウシュヴィッツ収容所で命を落とすわけですが、『アンネの日記』は、歴史的な意義を持ちながらも、文学作品としてもとても魅力的であり、親しみやすく、読みやすい理由は、ここにあります。
狂気の沙汰と「悪の陳腐さ」
さて、ナチス・ドイツの親衛隊中佐であったアドルフ・アイヒマンをご存知でしょうか?
ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)中、ヨーロッパのユダヤ民族の移送で中心的な役割を果たした1人でした。1961年にイスラエルで開かれた裁判で、ホロコーストの残虐さを公の場で初めて語り、世界を震撼させて人間です。
ところが、この裁判を傍聴したユダヤ系哲学者のハンナ・アーレントは、アイヒマンについて、彼は極悪人でもサディストでも、反ユダヤ主義者でもなく、出世欲と虚栄心の強い、思想の無い、悪についての想像力に欠けた、小心で有能な役人でしかないと断定しました。
そして、彼の行状を「悪の陳腐さ」と表現しました。
アイヒマンのような大勢の「小物」の役人が、命令に忠実に、黙々と業務に励むことで、ユダヤ人数百万人を絶滅させるという巨悪をつくり出せた事実こそが重大な問題である、と指摘しました。
アイヒマンは、「自分は命令に従ったに過ぎない」と主張しましたが、アーレントはナチスの全体主義体制に服従したことは体制を支持したことと同じであり、犯した罪から免れ得ない、したがって死刑は妥当であると考えました。
たとえ巨大組織の歯車であっても、携わった人間の罪は免れないとし、ここに「服従は支持である」との名言が生まれました。
「彼は愚かではなかった。まったく思考していないこと―――これは愚かさとは決して同じではない―――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してもアイヒマンから悪魔的なまたは鬼神に憑かれたような底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、やはりこれは決してありふれたことではない。」(『エルサレムのアイヒマン』(1963年発表))
アーレントが描いたアイヒマンの姿が、ユダヤ人の大敵としてのイメージと異なるものだったことから、当時、アーレントは激しく批判されたそうです。
アンネ・フランクの短い生涯とは?
厳しい隠れ家での生活の中にあっても、日常は普通の少女として、時にみずみずしい姿を垣間見せます。
日記の最後は、「・・・わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるのかを。きっとそうなれるはずです、もしも……この世に生きているのがわたしひとりであったならば。じゃあまた、アンネ・M・フランクより」と綴られます。
その3日後の1944年8月4日、家族全員が逮捕、連行され、9月6日にアウシュヴィッツ収容所に移送されます。
アンネは、アウシュヴィッツ収容所で1945年2月末頃、姉のマルゴーに続き、チフスで亡くなります。15歳の生涯でした。
アンネは、日記の中で、「紙は人間よりも辛抱づよい」という言い習わしを書いています。心の内に抱えている限り、もやもやと渦を巻き、袋小路に陥ってしまう感情も、言葉にして紙に書きつけることで、外に放つための「通路」ができる、と考えていました。
1944年7月6日、「信仰を持つひとは喜ぶべきです。・・・問題は神を恐れることではなく、自らの名誉と良心を保つことなんです。・・・「澄みきった良心はひとを強くする」って。」と日記に残します。
『アンネの日記』は、どのページを開いても、アンネのみずみずしい青春の息吹がみなぎり、思春期の子どもの内面が鮮烈に描き出されています。アンネが持つ言語感覚の鋭さ、言葉の豊かさには驚かされます。文学作品としても、豊かな広がりを秘めています。
戦争体験がないものにとって、想像をはたらかせることはとても難しいことです。それでも、避難生活の最後まで、自分なりの意見、計画、理想を持ち続けたアンネ・フランクの生命力にはとても感銘を受けます。
どのような形であれ、過去の歴史を学ぶことから、「戦争」というものに敏感であること、また、アイヒマンのように人間は変わりうる怖さを自覚しながら、家族のため、親しい友人のため、平和な世界を願うばかりではありますが、さて、昨今の空気はいかがなものでしょう?
この夏、ぜひ、『アンネの日記』をお手にとってみてはいかがでしょう。