2022年06月07日
徳川幕府の事業承継
こんにちは、コンサルタントの伏木です。
突然ですが、私は中学生ごろ父親が買った司馬遼太郎さんの小説を読んだことがきっかけで歴史が好きになり、大学時代も歴史を専攻しました。その中でずっと思っていました徳川家康と秀忠の事業承継について私見も交えてご紹介します。
徳川家康は日本の歴史上1.2を争う知名度の高い人物ですので、皆様ご存じかと思います。
のちに約260年間、15代にわたって続いた徳川家の幕府の初代として征夷大将軍の座に就いた人ですね。
ところで皆様は徳川家康が将軍であった期間がどのくらいかご存じでしょうか?
ちなみに徳川家康は戦国時代から安土桃山時代、そして江戸時代を73歳になるまで生き抜き、当時で考えると長寿を全うしました。
早速ですが答えは1603~1605年の約2年間なんです。漠然としたイメージはお持ちの方も多いとは思いますが、改めて調べてみると短いですよね。
関ケ原の戦いが終わって将軍に就任し、豊臣家との最後の戦いである大坂冬の陣、夏の陣のかなり前に隠居しているのです。
このような形をとったのには重要な意味があると言われています。
一つは征夷大将軍を徳川家が自らの意思で世襲していくことで、今後も政権運営を担っていくことを対外的にも明確にしたという点です。この時点では豊臣家も健在でしたし、かなりのインパクトがあったかもしれません。
そしてもう一つは三男である秀忠を明確な後継者として将軍に就任させ、一定の権限移譲を行うことでいわゆるお家騒動の芽を摘んだという点です。実際秀忠は関ケ原の戦いの際には一方面軍の司令官を任される等後継者としての役割を果たしつつありましたが、1605年時点では家康の二男であり秀忠の兄である秀康が健在でした。秀忠が二代目将軍に就任したのは1605年、家康62歳、秀忠26歳の時で、家康は隠居後も10年以上健在であったことになりますね。
その後秀忠将軍時代の1615年に豊臣家が滅亡し、徳川政権の基盤は盤石なものとなりましたが、実は秀忠も家康にならって早いうちに将軍の座を3代目家光に譲っています。
秀忠は26歳で将軍となり、1623年44歳までその職にありましたが、家光がまだ19歳の時に譲って、秀忠も隠居後約10年生きているのです。
秀忠から家光への承継については少し意味合いが変わってきて今後に向けて長子相続の慣行を示したという点も見逃せません。
その後長子相続が原則的には守られ、徳川政権が結果的に260年続くこととなりました。
実際には家康や秀忠は将軍退任後も「大御所」と呼ばれ、ある程度の権力を持ったとも言われていますが、このように早い段階から現代で言えば代表取締役の座を譲り、社内的にも対外的にも責任を持たせていくことは昔からオーソドックスな事業承継手法であったのかもしれません。
弊社は常日頃から事業承継のお手伝いをさせていただいております。
既に事業の後継者が固まっていて税務面を中心としたテクニカルな面のサポートがメインではありますが、事業をどのように次世代に引き継いでいこうか悩まれている経営者の方のお話をお聞きすることもあります。
最近でいうと大塚家具、有名なところだと三洋電機等の著名な企業でも事業承継はスムーズに行かず、正解もないような非常に難しい問題であるため、なかなかアドバイスするのも難しいのですが、過去の事例等も引き続き関心を持って、場合によっては共有していきます。
今回のコラムは以上になります。最後までお目通しいただき、ありがとうございました。